■2017年9月10日 第6回 ごぼう 〜 特別追加講演「江戸東京野菜」について 江戸東京伝統野菜研究会 代表 大竹道茂氏
◇はじめに
  • 八百屋塾実行委員の吉野元さんから、11月のやっちゃ場マルシェで江戸東京野菜ブースを出すにあたり、協力してほしいとお話をいただきました。お手伝いするのはやぶさかではないのですが、みなさんにも江戸東京野菜のことを知っておいてほしいと思い、本日講演することになりました。
江戸東京伝統野菜研究会 代表 大竹道茂氏
◇江戸東京野菜とは
  • 江戸東京野菜とは、「江戸期から始まる野菜文化を継承するもの」と定義しています。 下総の国、武蔵の国の両方を含めた地域が江戸で、江戸と周辺で栽培されてきました。三多摩はかつて神奈川県でしたが、明治に東京府の水を確保するために水源地として東京に編入されました。現在の多摩地区も含め、東京で栽培されてきた野菜、特に、固定種というのがポイントです。タネを蒔き、できたものを食べ、農家がタネを採ってまたそれを蒔く。このように、タネを通して今日まで命がつながってきている野菜です。今、みなさんが主に扱っている野菜はタネ屋さんが作った交配種で、毎年タネ屋さんからタネを買って栽培する。それが伝統野菜との違いです。私たちは、貴重な遺伝資源である固定種を次の世代に伝えていこうとしています。

  • 固定種は揃いが悪いので、流通にのらなくなりました。交配種は段ボールにぴったりおさまる同じサイズの野菜ができます。固定種は3割ほどしか揃わないので、農家は無駄が多い、と作らなくなり、タネ屋さんは、できるだけ揃いのいいものを作るようになります。

  • 江戸東京野菜の苗やタネ、農家が採っていたり、タネ屋さんが持っていたりしたものをいただき、過去を調べて江戸東京野菜になるかどうか判断します。認定するのはJA東京中央会で、現在45品目。毎年、1〜2件タネが見つかっています。今年も9月か10月の委員会で認められれば、新たな江戸東京野菜が登録されます。

  • 東京では都市農業が行われています。多摩地区、江戸川、葛飾、足立あたりの幹線道路からちょっと横道に入ったところに畑があります。西多摩には、中山間地もあります。かたや洋上1000キロ、小笠原も東京都です。東京は東西に長く、いろいろな地形の変化があって、さまざまなものを栽培しています。東京の西の端には標高2018メートルの雲取山があり、奥多摩の渓流を利用したわさび田があります。伊豆や長野では、川の流れを利用してわりあい広いところでわさびを作っていますが、奥多摩は棚田になっているのが特徴です。川合玉堂の絵に、わさび、しいたけなどをのせたいかだが多摩川を下って、六郷まで荷を運んだようすが描かれています。東のほうはゼロメートル地帯です。江戸川の農業試験場の近く、旧中川の中川放水路のあたりでは小松菜などが栽培されてきました。東京は大産地ではありませんが、山のものから洋上1000キロまで、少しずつ何でもあるのが特徴です。

  • 東京の農業について多くの方に知ってもらいたい、という思いから、1997年(平成9年)に「江戸東京の農業」という屋外説明版を作ろう、と提案しました。説明版を立てる場所は、農家が豊作を祈願し収穫を感謝するのは地域の鎮守様ですから、東京都神社庁に協力をお願いしました。神社のしきたりには、農業が深く関わっています。今、都内の神社に50本の説明版が立っています。

  • 江戸に幕府がおかれると、人口が急激に増えました。酒、味噌などは京都や大阪から持ってきましたし、米は年貢米がありましたが、問題は新鮮な野菜でした。百姓もそれほどいなかったので、何万という人には行き渡りません。そこで、1630年代、参勤交代制度ができると、大名たちは国元から野菜のタネを持参して、農民も連れてきて、下屋敷で野菜を作らせました。こうして、江戸には全国のタネが集まり、そのなかで江戸の気候風土にあったものだけが残りました。

  • 享保年間、ロンドンやパリがまだ人口60〜70万のころ、江戸の滞留人口はすでに100万。世界一の都市でした。この頃の歌川広重の絵に、品川かぶとねぎ、目黒のたけのこ、内藤かぼちゃととうがらし、なるこうり、早稲田みょうが、練馬だいこん、雑司ヶ谷のなす、滝野川にんじんとごぼう、谷中しょうが、三河島菜、千住ねぎ、寺島なす、亀戸だいこん、小松菜、砂村ねぎを書き込みました。鮮度が命の野菜ですから、運べる距離に産地があったことがわかります。
◇練馬だいこん
  • 江戸の食生活において、菜っ葉と違い腹に溜まるだいこんは重要な食べ物でした。 のちに将軍綱吉となる松平右馬頭(うまのかみ)は、館林の城主だったとき、参勤交代で江戸に出てきて病気になりました。医者に診せてもよくわからず、陰陽師にみせたところ、「城の北西方向に馬のつくところがあったら、そこで養生しなさい」といわれました。北西の方向は文京区の小石川ですが、このあたりに馬のつく地名はなかったため、さらに草深いところを探し、下練馬に屋敷を建てて養生したそうです。 体調のいいときには村を歩いて農民の生活を見たりしました。農民はとても貧しい生活だったので、尾張からだいこんのタネを取り寄せ、作らせると、とても立派なだいこんができました。このあたりは城北といわれ、関東ローム層の火山灰土が比較的深いので、タネを蒔くと、長いものでは1メートルもあるような大きくて長いだいこんができた。尾張ではそれほど大きくなかったそうですから面白いですね。農家は喜んで生産に励みました。綱吉は2年ほどで回復し、お城に帰ることになったのですが、その際に農民を集め、「今後、立派なだいこんができたら献上するように」と言ったそうです。それは農民にとってもステイタスですから、さらに一生懸命栽培に取り組んで、だいこんの一大産地になりました。しかも、ちょうどこの頃、沢庵禅師が普及していたぬか漬けにしたところ、非常においしいものができたということで、沢庵漬けで全国的に有名になりました。大店は樽で1年分買ったそうですから、かなりの量が練馬から売られていきました。

  • 練馬だいこんの沢庵漬けは、「江都自慢」という番付表にも載るくらい有名です。12月頃、江戸に向かって中山道を志村坂下から上に上がってくると、練馬だいこんがたくさん干されていました。それを見た人たちはその大きさにびっくりして、「うちの村にもこのだいこんがほしい」と、農家を訪れてタネを求めました。やがて、農家の二男、三男のなかには、タネ蒔きが終わった後にタネをもらって、タネ屋を出す者が現れます。巣鴨から板橋の間には中山道が走っているのですが、巣鴨の地蔵通りにタネ屋街道ができ、大名が国に帰るときにはタネを買って帰ったそうです。「江戸東京の農業」の屋外説明板のうちの1本で、「旧中山道はタネ屋街道」というのが、このあたりに建っています。

  • 1735年(享保20年)の山形、庄内の産物帳に、「練りま大こん」という記述があります。大名がタネを買って帰り、庄内で作っていたわけです。このようにしてタネは全国に伝わりました。干しだいこんは今も庄内の特産品として作られています。曲がっていたり、長すぎたりして、どう見ても固定種です。

  • 神奈川の「三浦だいこん」は、練馬だいこんと地のだいこん「高円坊(こうえんぼう)」の掛け合わせだといわれています。信州の「前坂だいこん」は、「秋づまり」と呼ばれる寸胴のタイプで、練馬だいこんを改良したものです。固定種は揃いが悪くいろいろなタイプができます。そのなかから寸胴タイプのタネだけを採種して作ったものと考えられます。世田谷の「大蔵だいこん」も練馬系、寸胴タイプでどこを切っても同じ太さでおでんに向いています。このほかにも、山川漬けで知られる薩摩・指宿の「山川だいこん」など、練馬系だいこんは日本全国に残っています。
◇亀戸だいこん
  • 40年前、私が担当したレシピ本『東京育ち野菜の話』には、子どもが描いた青首だいこんの絵が載っています。しかし、江戸には青首だいこんはなく、江戸っ子は白首だいこんを好みました。粋な江戸っ子は白首だいこんなのです。荒川の「汐入だいこん」、「志村みの早生だいこん」、「大蔵だいこん」、「練馬だいこん」、そして、「亀戸だいこん」。亀戸だいこんは茎まで真っ白で、江戸末期に突然変異でできたといわれています。タネをとって翌年市場に出したら、粋だといって3倍の値段で売れたそうです。葉もやわらかくてトゲトゲした部分がなく、葉を味噌汁に入れるととびきりおいしかった、ということです。

  • 現在、東京のあちこちで、江戸東京野菜で町おこしが行われています。亀戸の香取神社には「江戸東京の農業」の説明板を立て、社務所にはスタンプをおかせてもらい、スタンプラリーもできるようになっています。説明板を立てたあと、亀戸の料理屋さん「升本」が、すぐ横に大きな亀戸だいこんの碑を建てました。相乗効果もあってたいへん盛り上がっています。1997年(平成9年)に商店街の「亀の会」がこの説明板を見て、地域の小学校に亀戸だいこんのタネを配りました。3月の第二日曜には、「福わけ祭り」という収穫祭をします。子どもたちが育てたものが並べられ、農家が作った亀戸だいこんや味噌汁を配ります。もう20年も続いています。亀戸だいこんは、かつて、地元では、おかめだいこん、おたふくだいこんなどと呼ばれていました。江戸東京野菜にはたいてい土地の名前がついています。市場に持っていったとき、「これどこのだいこん?」「亀戸のだ」と、市場での整理上、名前がついたわけです。亀戸駅のホームでも、亀の会が亀戸だいこんを作っています。今頃、ちょうどタネを蒔いたかどうか…という時期ですね。3月第二週のお祭りまで、大切に育ててくれるはずです。かつての荷姿も残っていて、亀戸だいこんを、わらでしばって亀の形に作って売った、といいます。わらのところを持ってもばらけないやり方なんです。私は、「農家の美学」といっていますが、現在のようにただビニールテープでグルグル巻くだけではない、このような文化も残していきたい、と思っています。升本の本店では、毎日、新しい亀戸だいこんをおいて、ディスプレイしています。
◇八代将軍吉宗は鷹狩りで「小松菜」と出会った
  • 八代将軍吉宗は、あるとき、鷹狩りに夢中になって、昼ご飯を食べるのも忘れていた、といいます。周囲を見渡したところ何もなく、田んぼの中にお社があるのが見えました。今の新小岩、小松菜伝説が伝わる香取神社です。吉宗がやって来て、「何か食べるものはないか」と訪ねたところ、急だったので仕方なく、餅に庭にあった青菜を添えたすまし汁を出しました。これを食べた吉宗はたいそうおいしい、と気に入って、「この菜っ葉は何という菜か」と聞きました。おそらく当時は葛西菜と呼ばれていたのではないかと思いますが、「このあたりにあります青菜でございます」と答えたところ、「このあたりは小松川というところなので、今後はこの菜を小松菜とするがよい」と、吉宗が名づけた、とされています。

  • 小松菜は現在はほとんどが交配種で、北海道から沖縄まで、1年中栽培されています。固定種の伝統小松菜には、「後関(ごせき)晩生」、「城南」などの品種があります。なかでも、後関晩生は、江戸川の後関種苗がタネを採り続けてきた固定種で、東京の農業試験場が食味検査をして、固定種のなかでも一番おいしい、といわれているものです。

  • 伝統小松菜と交配種はどう違うのかというと、伝統的なものは新しい葉が真ん中から出ると外葉が寝てしまいます。交配種は立っているので、採りやすいし、株間も狭くていい。伝統小松菜は株間を広くしないといけませんし、そうなると収穫量が減ります。現在の一般的な小松菜は、中国野菜の青梗菜と掛け合わせたことにより株元が太くなって、ボリューム感が出ました。固定種は株元が細いので、ある程度の量がないとボリューム感が出ませんが、交配種は1束あたりの数が少なくて済むので、盛んに作るようになったわけです。また、小松菜はもともと冬の野菜ですが、今は1年中どこかで栽培されているので、旬がわからなくなっています。

  • わざわざ「伝統小松菜」と呼んでいるのは、2013年(平成25年)、ホテルで食材の産地偽装問題があったからです。エビが問題になりましたが、野菜もあり、「九条ねぎ」といって、一般的な青ねぎと白ねぎを使っていました。伝統的なものを食べるつもりで来たのに実際は違っていた、というようなことは避けなければいけません。生産量は交配種のほうが圧倒的に多いので、混乱しないように、一般的な小松菜は「小松菜」として、固定種を「伝統小松菜」にすることになりました。

  • 2年ほど前に、「江戸東京野菜から加賀野菜を考える」というテーマで、金沢大学に呼ばれて話をしに行ったことがあります。そのとき、泊まったホテルの朝食で、「加賀野菜・能登野菜」というコーナーに並んでいた野菜料理のひとつに、小松菜のごま和えがあったんです。小松菜を加賀野菜だと思っているのかな、と不思議に思い、聞いたら、小松空港周辺で作った小松菜だそうです。知らない人は、小松菜ってあそこがもとなのかな、と思うかもしれません。私たちがもっと声を大にして言わなければ、と思っていますが、もし小松空港周辺地域から荷が入ってきたとしても、東京の八百屋さんは、伝統種ではない、ということぐらいは知っておいてください。
◇千住ねぎ
  • 江戸には大阪、摂津からねぎが持ち込まれた、といわれています。摂津の特産は葉ねぎの「難波ねぎ」で、京都に伝わって「九条ねぎ」になった、といわれているものです。 葉がやわらかくておいしいのですが、折れやすいので栽培がむずかしい。江戸は農業後進地域でしたから、摂津から入ってきた農民が持って来たタネを江東区の砂村あたりで育ててみたところ、江戸は摂津よりやや寒かったようで、霜枯れ病でだめになってしまいました。農民はがっかりして、畑を片づけていたら、5〜6センチの根の白いところがたくさん出てきました。もったいないので焼いて食べると、甘くておいしかった。これが、根深ねぎが生まれるもとになった、といわれています。根深ねぎは、栽培法によって作り出されます。畑の写真を見るとわかりますが、農家の人のヒザの上くらいまで土を寄せています。これによって白い部分が長い軟白ねぎができます。

  • やがて、砂村ねぎが小名木川を通って、隅田川をさかのぼり、千住の市場に出て行くようになりました。今は千住の市場に入るものを「千住ねぎ」と呼びますが、昔は周辺で作ったものでした。最近、千住ねぎのタネが見つかり、足立の内田さんという方が栽培を始めています。

  • みなさんがよく目にするのは「千寿ねぎ」と書くほうかもしれません。これはブランドねぎで、昔からの固定種である「千住ねぎ」とは違います。「千住ねぎ」は浅草葱善の田中さんという方が扱っています。葱善では代々「千住ねぎ」のタネを守り続けてきたので自分の代ではなくせない、といって、茨城の農家に頼んでタネをずっと採り続けていました。

  • ねぎ坊主ができるとかたくなり出荷できないので、最近の交配種はねぎ坊主ができないように品種改良して、長く出荷しています。「千住ねぎ」は、固定種なので、ねぎ坊主ができます。

  • 「千住ねぎ」は葱善さんのほかにもう1系統あります。つくばのジーンバンク、農業生物資源研究所に保存されているタネをいただいて、今、足立区の3つの小学校でタネを伝達していく授業をしています。タネを蒔き、ねぎを育てて給食で食べ、そのねぎのタネを採って、次の学年に手渡す。こうして、命が伝わっていく、ということを教えています。

  • 日本列島のどこまでが根深ねぎの文化なのかを調べたところ、鈴鹿山脈から西が葉ねぎ、東は根深ねぎということがわかりました。愛知の有名な「越津ねぎ」は、根深ねぎです。
◇新宿の農業について
  • 徳川家康を護衛する鉄砲隊のトップに内藤清成という馬の名人がいました。家康から「馬を走らせて回れるだけの土地を授ける」といわれ、大久保、代々木、千駄ヶ谷、四ツ谷に及ぶ広大な土地を拝領、高遠藩主内藤家の下屋敷になりました。これが今の新宿御苑のルーツです。その馬は疲れ果てて死んでしまい、新宿御苑わきにある内藤神社にまつられています。

  • 内藤家のお屋敷は、明治になって国の農事試験場となり、現在、新宿御苑になりました。内藤家の屋敷内で生まれたのが「内藤かぼちゃ」です。産地が移り、「淀橋かぼちゃ」や「角筈かぼちゃ」になりました。西洋かぼちゃとは違い、甘みは薄いのですが、ねっとり系で、ミキサーにかけると茶碗蒸しやプリンに最適です。新宿御苑では、「内藤かぼちゃ」を漬け物やさまざまな料理で提供しています。

  • 「内藤とうがらし」と呼ばれるとうがらしも栽培されており、内藤家の屋敷から大久保のほうを見ると、とうがらしで一面真っ赤だった、といわれています。江戸時代、関西は「七味とうがらし」、江戸では「七色とうがらし」と呼ばれました。ところが、戦後、七色が七味になった。やげんぼりにその理由を聞いたところ、戦争中に色という言葉は問題があった、ということでした。やげんぼりの口上にも「江戸は内藤新宿八房のやきとうがらし」という一節が入っています。学習院女子大には、とうがらしの研究をしているグループがあり、内藤とうがらしのうまみ成分を研究しています。10月1日から、新宿伊勢丹、高島屋など新宿の街では「内藤とうがらしフェア」も行われる予定です。
◇東京うど
  • 東京うどは井草発祥で、古谷さんという方が関西から栽培法を学んで来た、といわれています。

  • うどの栽培は、まず1年間地上で育てます。それを霜にあてて枯らすのがポイントです。霜にあてると、根っこが休眠状態に入ります。それを掘りあげて保冷庫に入れておき、さらにムロと呼ばれる地下3〜4メートルの穴蔵に植えこんで、70〜80cmに育ったところで刈りとって出荷。現在は、長すぎて売れないといわれ、短いものも作るようになってきました。
◇江戸東京野菜で町おこし
  • 大塚さんという品川の八百屋さんの話です。 駅ナカに店ができて、北品川の商店街が寂れていった頃、神社の説明板で、だいこんのような形をした「品川かぶ」のことを知りました。享保年間の絵も残っていた。そこで「品川かぶ」を復活させることにしました。近隣の小中一貫校でも、屋上で9年生に栽培してもらい、学校給食にもなった。品川区長が「品川かぶ」をかじっている写真もネットに載っています。私が、八百屋さんの店頭で売るだけではなく、商店街中に配って商品開発を頼んでみたら、とアドバイスしたところ、「品川かぶ」を使ったまんじゅう、餃子、ケーキなども作られるようになりました。大塚さんは、「これを買えばかぶが上がるよ!」と言って、正月にかぶ2本に品川神社のおみくじを挟んで売り始めました。もう4年くらい続いているそうです。「品川かぶ」のストラップも作りました。「品川かぶ」の葉を塩漬けにすると野沢菜のようになり、かぶ漬けも評判です。大塚さんご夫婦を、亀戸だいこんの「福わけ祭り」のときに香取神社にお連れしたら、たいそう刺激を受けたようで、その年から毎年12月、品川神社の境内に小学校の父兄や区長さんを呼んで、「品川かぶ」の品評会を始めました。学校やさまざまな施設、30組織で作られたかぶを集めました。大きいのがあったり、細いものがあったりと、いろいろですが、参加することに意義があるわけです。優勝者には、おいしいみかんを賞品にしている、と聞きました。「品川かぶ」の品評会では、品川汁をふるまっています。品川汁の由来は江戸時代のこと。品川沖で陸奥の船が難破し、品川の人たちは、熱い品川汁をふるまって命を助けたといいます。品川では忘れられていましたが、青森には「品川汁」が、この話とともに郷土料理として伝わっています。

  • 東向島の八百屋さんの阿部敏さんは、「寺島なす」で町おこしを推進しています。東向島のみなさんはPRがとてもじょうずで、「茄子乃介(なすのすけ)」というキャラクターを作り、白髭神社ではストラップを売っています。Tシャツも作りました。三國清三シェフが江戸東京野菜を使ったメニューの企画も行い、そのときは私が江戸東京野菜について説明しましたが、三國シェフにもTシャツをプレゼントしていました。

  • 元麻布にある「更級堀井」というそば屋さんでは、江戸ソバリエ協会やお料理の先生といっしょに、江戸東京野菜を使ったイベントを行っています。江戸東京野菜を使った料理や、そばに馬込三寸にんじんやあゆたでを練り込んだりして楽しんでいます。たけのこも江戸東京野菜です。「更級堀井」さんを八王子にお連れしたときは掘ってきたたけのこが若竹そばになりました。

  • 東向島の「長平(ちょうへい)」さんでは、「寺島なす」1個を天ぷらにした「寺島せいろ」というメニューがあります。

  • 都庁の32階にあるレストランで、江戸東京野菜を食べるフェアを行っています。旬の江戸東京野菜一品目をテーマにして、その野菜だけで6品くらい料理を出してもらいます。生産者を呼んで話をしてもらったり、伝統小松菜にもいくつかあることを紹介したり、「川口えんどう」や「寺島なす」もテーマにしました。次回は9月末に、「雑司ヶ谷かぼちゃ」をテーマに開催予定です。今年、江戸東京野菜に認定されるだろう、といわれているかぼちゃです。楽しい会ですので、もしお時間があればご参加ください。

  • 押上の「よしかつ」さんは、週2回、自分のバイクや軽自動車で東京中を回って荷を集めてきます。味噌やしょうゆも全部、東京産にこだわっています。お店で出しているお料理、確か江戸東京野菜42品目だったかと思いますが、全品で本を出したくらいの方です。

  • 2013年(平成25年)、フランス大統領が国賓として来日したとき、安倍首相が首相官邸で食事会を開きました。メインディッシュはフランスの牛肉と日本の神戸ビーフを使った料理で、「江戸東京野菜添え」でした。フランスの牛肉の上に花穂紫蘇、神戸牛の上には木の芽がのり、伝統小松菜や、なかをくり抜いてトリュフを入れた金町小かぶなどが出たそうです。『家庭画報』の国際版には、6ページにわたって、生産者とともにこの料理が紹介されました。このように、じわじわとではありますが、江戸東京野菜は広がりつつあります。

  • 三國シェフは、早くから、地産地消を提唱され、東京の店では江戸東京野菜が使われています。これからみなさんにも江戸東京野菜をぜひ売っていただきたいと思います。
◇江戸東京野菜の生産者
  • 八百屋塾のみなさんを産地視察でお連れしたことがあります。西東京の矢ヶ崎さん、岸野さんという方が、さまざまな江戸東京野菜を作っています。世田谷区上馬の八百屋、「八百森」さんは、先代からの漬物がおいしいと評判で、伝統小松菜、品川かぶ、三河島菜、亀戸だいこんなどの江戸東京野菜を漬物にして販売しています。

  • 三鷹、立川、小金井、東久留米など、いくつかグループがあり、のべ231人の人が江戸東京野菜を作っています。「川口えんどう」というのは、八王子市の川口というところに伝わっている食感のいいパリパリとしたえんどう豆で、そのプロジェクトグループもあります。
◇質疑応答より

    Q:「千住ねぎ」と「千寿ねぎ」の違いをもう一度教えていただけますか?
    A:「千住」は固定種、「千寿」はブランドねぎ、交配種です。

    Q:伝統のにんじんにはどんなものがありますか?
    A:現在あるのは、「馬込三寸にんじん」、「砂村三寸にんじん」、「滝野川にんじん」などです。

    Q:江戸東京野菜一品一品の生産量はどれくらいあるのですか?
    A:たくさん作ってみんなが買ってくれる、というところまではいっていません。比較的多いのは「寺島なす」ですが、今年は7月暑くて8月雨が多く、花が落ちてしまい、錦糸町駅ビルでの江戸東京野菜フェアにもだいぶ迷惑をかけてしまいました。ただ、私どもとしても、江戸東京野菜を現在のF1と切り替えたいなどとは考えていません。 生産者サイドとしても、買ってくれる人がいなければ作れませんから、今は、「○月にイベントがあるから作って」というようにお願いして作ってもらっています。たとえば、レストランに「月替わりのメニューとして、1ヶ月間きっかり、この伝統野菜がほしい」、といわれても無理です。季節限定、自然まかせですから、月の途中から始まって途中で終わることのほうが多い。最初にきちんとそういう話をして、了承してもらえなければ、受け入れないことにしています。

    Q:江戸東京野菜をレストランに納めるときはどのようにしているのですか?
    A:いろいろなケースがありますが、果菜里屋の高橋さんのように、レストラン専門で、江戸東京野菜と東京産野菜を扱う人もいます。江戸東京野菜をやろうという人にはそれなりの思いがあって、交配種と同じように扱おう、という人たちは少ないので、自信を持って売り込んでくれます。もちろん揃いが悪いとか、そういうことは明確に伝えないとトラブルが起きる原因になります。

    Q:在来小松菜を作ってください、といえば作ってくれるのでしょうか?
    A:埼玉あたりにも産地ができています。リクエストがあればやってみよう、という若い生産者もいると思います。

    Q:江戸東京野菜と、東京産野菜の違いがよくわからないのですが…?
    A:たとえば小松菜でしたら、タネを通して命がつながってきたものが伝統小松菜で、タネ屋さんが作ったタネを東京で作れば東京産野菜です。伝統小松菜は基本的に冬季限定です。タネ屋さんのタネは周年栽培できるように作られていますから、1年中あります。

    Q:11月に東京農業祭があると聞いたのですが…?
    A:11月2日、3日に、明治神宮の裏の宝物殿で農業祭が開催されます。芝生の広いオープンスペースにテントを立て、その時期に採れる東京の野菜と果物が集まります。毎年、江戸東京野菜コーナーを作っているので、ご来場ください。

    Q:品川の八百屋さんの話は刺激になりました。ただ、伝統野菜は売りにくいのは確かで、スポット的に入れても売れる前に傷んでしまったりするのですが…?
    A: 今日ご紹介した八百屋さんは、農家さんと太いパイプを持っています。農家と親しくなると、じょじょに広がっていくのではないでしょうか。私も、今日初めて江戸東京野菜の話を聞いたみなさんに今すぐ売ってください、とは思っていません。理解してやりたいと思ったらありがたいです。

 

【八百屋塾2017 第6回】 挨拶講演「ごぼう栽培の歴史及び品種・作型の分化・需要動向について」勉強品目食べくらべ特別追加講演「江戸東京野菜」