■2024年3月17日 第12回 修了式 〜 記念講演「千住一本ねぎ 幽霊」など 講談師 田辺一乃先生
◇講談師になったわけ
  • 講談師の田辺一乃です。講談師は、今、大阪と東京で約100人。芸人の中では、絶滅危惧種といわれております。

  • 私は以前、国家公務員でした。一生公務員でいるつもりでしたが、広報の仕事をしていたとき、高齢化対策で定年年齢を伸ばせるか、という調査をしたんです。「講談師の田辺一鶴さん70歳でいきいき元気に講談教室を開催中」という新聞記事を見て、話を聞きに行きました。そうしたら、「僕の講談教室に通ってきなさい」と言われ、生徒になっちゃった。おつきあいでやっていたら、「君、そんなに講談が好きなら僕の弟子にならないか?」って。私が上手だったからじゃないんです。当時は講談師が80人を切っていて、1人でも増やしたかったのだと思います。「公務員のままでもいいから」とかむちゃくちゃ言われまして、ずっと断っていたのですが、最後は根負けして、弟子入りしてしまったわけです。
講談師 田辺一乃先生
  • 前座をしている限りは修行中の身ですから、収入は発生せず、むしろ持ち出し。だから、公務員の兼業規制にも引っかからないだろうと思って、誰にもいわずにこっそりやっていたはずなのに、なぜか人事課にばれて、「即刻やめたまえ!」とたいそう怒られました。ところが当時の上司である課長や、審議官、局長までが、面白がってくれまして。たまたま人材育成を担う局だったこともあり、特殊な人材育成の世界を体験して戻ったら論文を2〜3本書く、という約束で、「行ってこい!」となったんです。

  • 2年間は公務員のままで前座をしていました。そのうち、担当していた仕事の定員が削減されてセクションがなくなってしまった。その機会に公務員をやめることにしました。

  • 講談に専念できることにはなったのですが、師匠が「二つ目にあげてやろう」と言ったあと、風邪をこじらせて肺炎でコロッと逝ってしまった。次の師匠が見つからなければ、私は廃業ですが、数ヶ月後に姉弟子が弟子を取れる立場になったので、「預かり弟子」にしてもらい、2019年に真打ちになりました。
◇講談とは?
  • 落語はとにかく面白い。一方講談は笑いだけがテーマではありません。

  • 落語は、たとえば長屋のご隠居とか、架空の人で話を進めることが多いのですが、講談は大体有名な人が主人公になり、話は荒唐無稽でも現実的にありえなくてもかまいません。

  • 講談で最も多くネタがあるのは、東京だと「赤穂義士伝」。お芝居の「忠臣蔵」です。赤穂義士47人、エピソードがあった人もない人もいますが、ない人にもこんなことがあったのでは、みたいにして、それぞれに話があります。1人で3つも4つもお話を持っている人もいる。さらに、「義士外伝」。外伝とはスピンオフの話ですね。ですから、数限りなくお話があるといわれています。

  • 戦国時代のネタも多いです。なかでも豊臣秀吉は、明治時代に、とある講談師が1月1日から毎日1席ずつやって、365席話があったというぐらい話が多い。

  • 落語は話が短く、10〜20分ぐらい。講談は基本一席が30分。話し方も違います。落語はお蕎麦食べたりとかキセル吸ったりとか、お話だけではなく所作の芸です。
◇男性ばかりだった講談師
  • 講談師はなかなか食えません。前座の頃は修行ですから、自分で仕事を増やしてはいけない。自分の講談会なんてばれたら、先輩たちに「100年早い!」って怒られます。

  • 前座を3〜5年やって、少しはできるようになり、しきたりも覚えたね、となると二つ目に上がります。二つ目はまだ半人前で、師匠の目が届いているところにいなきゃいけないのですが、自分で仕事を作っていくのはいい。飛び込みで、「すいません、このお店で月1回講談会やらしてもらっていいですか?」みたいな営業をしてもいいし、どこか場所を借りて自分でお客さんを呼んでもいいんです。

  • お客さんがついてくると、寄り合いで審議され、親になることが許されます。これには結構お金がかかります。お披露目のパーティーやプレスリリース、真打ち披露興行。講談協会の場合、ひと月56席あり、先生に出ていただくやり取りとかお金の管理など、全部自分でやります。大変ですが、いろいろ覚えます。それをやれると真打ちという感じです。真打ちになれば仕事が取れると思われるかもしれませんが、1番仕事を取れるのは二つ目。単価が安いからです。単価を下げたら、SNSの時代ですから、わかっちゃう。周りの講談師から「迷惑だからやらないで」って言われます。

  • たとえば野菜マルシェなど、どうしても行きたい仕事は、ご相談させてもらいます。お料理作るのが大好きで、野菜マルシェで残ったお野菜を片付けるときに、「持ってく?」と言ってくれるので、1週間ぐらいはお野菜豊富なハッピーな人生を送れますから、「いいですよ、行きます」って。

  • 昭和40何年まで、女性には門戸を解放しておらず、女性講談師はいません。講談師は22人にまで減ってしまいました。戦争から帰ってくる人もいません。当時、一龍齋貞鳳というハンサムな講談師が、講談だけでは食えないので、テレビでも活躍していました。この人が数えたら、上方と江戸で24人。史上最低です。こうなったら、「講談師24人」という本を書こう、と。半年後に、東京のホテルで出版記念会をやったところ、集まった講談師は22人。途中で2人、寿命が尽きちゃった。当時が最低で、もうダメだというときに、「講談教室を開けば女の人も来るかも」ということになった。その第1号の中に今もご活躍の宝井琴桜先生がいらっしゃいます。

  • 今、講談師は半分が女性です。元は男の芸でした。かつては、楽屋で挨拶すると、「全然見ない顔が来た」とか、「なんだ、また女か。女は泣くしすぐやめる」とか言われた時代もありましたが、入ることは拒まれなかった。しかも、女は入ったらやめなかったんです。むしろ、男の方が「心が折れました」とか言ってすぐやめる。「折れるぐらい繊細だったんだ、あの人」ってよくありました。それと、どちらかというと女の講談師の方がお金の計算ができる。お酒の飲みすぎで身を持ち崩す人もあまりいない。非常にクリーンな世界。女性の身としては非常に良い感じなので、そのうち総務省の方から表彰されるのではないかと待っているのですが、まだ来ない。総務省に知り合いがいる方は、男女共同参画がとても進んでいる業界があります、ってリークしていただければありがたいです(笑)。
◇江戸東京野菜の講談
  • 私は古典をできるだけやるようにしています。「修羅場調子」というのが1番古くて、戦の話で、10人、100人単位で死んでいくんです。楽屋で、「スプラッター一乃、今日はお前何人殺した」みたいなことを言われつつ、人情話より「修羅場調子」がいいと思ってやっていました。

  • ある日、江戸東京野菜の大竹先生に会いまして。みなさんも知り合いですよね。「江戸東京野菜の講談を12席作ってくれないか」といわれました。その熱意にやられて、半年後に12席作って出しました。大竹先生を囲むお食事会などで、いろいろな野菜を広めている八百屋さんとも知り合いました。本当に情熱がある方で、大変な思いでやっていらっしゃるのを見て、私は「ベジレンジャー」って呼んでます。そうして作った江戸東京野菜の講談ですから、できる限りやっていきたいと思っています 。

  • 千住一本ネギの話は、葱善さんからいろいろな話を聞いて作りました。江戸時代の設定で、千住のネギ問屋さんに幽霊と思しき女の人が一文銭をもってネギを1本買いに来るお話です。「ネギはこうするとうまい」というのを中に入れてもらえると嬉しい、といわれたので、それも入れ込みました。

  • 2席目は、小松菜の由来という講談。普通に話すと30分ぐらいですが、短めにして、引きごとというのですが、お話の本筋以外の話も入れてみたいと思います。
◇千住一本ネギ 幽霊
 千住というと宿場町、人が行き交うところでございます。千住大橋というのがかかっているということは川もある。江戸時代、物を運ぶのは主に水運でございました。船でいろいろな物資が集まるところでもございましたから、青果市場もありました。

 千住のあたりで作られていたのがネギでございます。ネギは本来、青ネギです。西の方は青ネギですよね。徳川家康公は三河の方ですから、江戸に来たときに青ネギを持ってきて植えました。ところが気候が違います。筑波おろしがピューピュー吹く冬場にネギを作ったら、青いところがみんな枯れてしまった。風よけのため土をかけてみたところ、枯れはしなかったのですが、白い部分が増え、葉っぱが欲しいのに根っこが増えて困った、と思ったのですが、その白いところを食べてみたらなかなかにおいしかった。土も合いましたのでどんどん根っこの方に土をかけて、白い部分が3分の2ぐらいあるネギができた。これが関東の白ネギ。その中でも千住ネギというのはたいそう有名なネギの1つでございまして、千住河原町という野菜の関係の人たちが住んでおりますところには、ネギを専門に扱う問屋さんもいたわけでございます。

 ある寒い冬の晩。葱善のあるじ、善兵衛さんは独り身でございまして、番頭さんを帰し1人晩酌の支度などをしておりますと、表の戸を叩く音がする。こんな時分に誰だろうと思って行ってみますと、か細い女の声で、「恐れ入ります、ネギを1本分けてくださいませ」。「来ていただいてありがたいが、手前どもは問屋でございまして。小売りはやってねえんです。明日の朝になったら八百屋さんの方に買いに行ってください」。ところが女はなおも、「ネギを1本分けてください、1本だけで良いのです」と言っておりますので、根負けをいたしましてドアを細めに開けますと、髪がざんばらで小太りの女が、白っぽい着物の袖の中に手を入れ、寒そうにしょんぼりとうつむいております。「今回限りにしてくださいよ」とネギを1本差し出しますと、いくらですとも言わないのに一文銭を渡してネギを受け取って消えてしまう。「なんだろうね。のんべぇの旦那さんに、夜中に急に酒のつまみでも作れって言われて買いに来たのかね。この寒いのに襦袢のような…。あれ? あの白い着物はかたびら? もしかして幽霊! いやいや幽霊にしちゃはっきりくっきりとしていたし、コロコロしてたよ」と、その晩はそのまま自分で晩酌をして寝てしまいます。

 翌日の晩、今度は勢いよく戸を叩く音。「すいません、ネギを分けて欲しいんですけれど」。「昨日も言ったけれど、うちは小売りはしてねえんですよ」。そうすると、「開けてくださいって言っても開けてくれないんだったらこっちから入っていきます」。言うなりふと扉を抜けて女が一人そこに立っている。「なんだお前!?」、「聞かれなかったら言わないつもりでしたけど、あたしは幽霊です」。「なんだ、俺んところに化けに出てきたのか」、「違いますよ、イケメンに恋をして。相手が二股をかけていたから悔しくて、死んで祟ってやろうと思って死んだんです」、「だったら、その男のとこに化けに行けばいいじゃねえか」、「行ったんです。けれど、あたし、こんな格好の幽霊でしょ。コロコロ、しゃんとしてるから死んだってわかってもらえなくて鼻であしらわれて追い出された」。「そうだったのか。ちょっとかわいそうだな。で、なんでうちにネギを買いに来たの?」、「千住ネギっていうのは白くてシュッとしてて透き通るくらいでしょ。だからネギを食べたら、素敵な幽霊になれると思って」。

 「昨日、ネギ買ってって、どうだった?」、「1本丸々かじったら辛かった」、「そりゃそうだ、冬のネギはピリッと辛いからね」。「おまけになんだか知らないけれどもお寺の裏の墓場に帰れなくなった」、「そうだね。ネギ、ニラ、ニンニクとか、そういう匂いのきついものを食べるとお寺さんって入れなくなっちゃうんだよ。ご本人に言うのも変だけど、この度はご愁傷様です」。

 「もう帰れないし悔しいから、ネギをくれなかったら毎晩あんたの店の前に出てやる!」、「よしてくれよ、わかったよ。生じゃないネギ料理、辛くないものを食わせりゃいいんだな。ちょっと待っとけ」。言うなり善兵衛さん、何やら作って持ってくる。「なんです? これは」、「白髪ねぎだよ。そのままでかじると辛いだろ。だから細く細く切って、ごま油の熱いやつをじゅっとかける。千住ネギっていうのは確かにシューっとしてるけどぶっといから、白髪にしたら姉さんもちょっとは細くなれんじゃねえかと思ってさ」。「そうですか、じゃあいただきます」と幽霊。一口食べて、「ああ、おいしい!」。

 「うまいだろう」と善兵衛さん。「あなたが持っているのはなんです?」、「これは俺が今日晩酌のつまみにしようと思ってたねぎまだよ。マグロの脂身の多いところとネギをぶつ切りにしたやつを土鍋にぶっこんでぐつぐつ煮る」。「なんだか生臭いけど、おいしそう…」、「これも食ってみるかい?」。「うん、ちょっといただきます。あ、さっきのと合わせて2文…」、「お金なんかいいよ」、「ダメです。ちゃんと人から物をもらったらお金を払わないと泥棒になって地獄に落ちる」、「もう幽霊になってるから地獄も極楽もねえ。いいじゃねえか」。

 そのうちに幽霊がシュッとちょっと細くなって、マグロを食べたからか、生臭い息が吐けるようになった。「おお、芝居で幽霊が出てくるときに生臭い風が吹いて…っていうからな。なかなかいいじゃねえか」。

 で、ちょっと待てよと、また何かを持ってくる。「今度はなんです?」、「ネギは青いとこもうめえんだよ。だからさっとゆがいて味噌をかけたぬただ」。これを食べた幽霊、なんだかちょっと青白くなってきた。「おお、いいねいいね。じゃあ次はこれ」と、刻んだネギの味噌炒め。七味をかけてピリッと辛いのを食べると、目のあたりにケンが出てきた。「うまくいくじゃねえか」と。その頃になりますと幽霊なかなか綺麗になりまして。体が透き通るようになり細くなり、ドロドロ〜っとそこらへんを飛び回っている。「あはは、いいね。それだったら幽霊に見えるし綺麗になったし、惚れた男のところに出てやれよ。その男はきっとのた打ち回って怖がっておまけに悲しむだろうよ。こんないい女を袖にして幽霊にしちまったのか、ってな」。

 「まあ、座って座って」、「もうすぐ出ていきます」、「わかった、わかった。お前さん呑める口かい? じゃあ最後に俺がネギのとっておきのやつを作るからちょっと待ってな」。やがて善兵衛さんが持ってきたのが、ネギをぶつ切りにして真っ黒焦げにしたものでございます。「なんです、これは? 真っ黒焦げです」、「これかい、千住ネギの1番うまい食べ方だ。ネギをこうやって炭火であぶってな、1番外側のこの真っ黒のやつはとる。そうすると外はカリカリ中はとろっとしているネギができる。これに塩をパラっと振って食べると最高なんだよ、食ってみな」。そう言われて、フーフーしながら幽霊がネギを食べ、「おいしい!」。見ておりますと幽霊の周りがキラキラと、雲のようなものが立ち込め、五光が差すと、ふっと消えてしまった。「あれ? どこに行ったんだよ、お姉さーん、幽霊さーん。あ、名前も聞いちゃいねえな。とうとう綺麗になったんで惚れた男のところに化けに出に行ったか。それともネギ食って成仏しちゃったか。まあ、どっちにしても、俺も独り身だし。毎日毎日お前さんに幽霊ですって出て来てもらっても別に構わなかったんだぜ」。

 千住河原町、その町の外には筑波おろしが吹くばかり。千住1本ネギ幽霊の一席でございました。
◇小松菜の由来
 8代将軍徳川吉宗公という方がございます。徳川幕府中興の祖ともいわれ、いろんなことを盛り立てていった方でございます。ドラマでは、「暴れん坊将軍」ですね。

 ちなみに、講談は戦後廃れてしまった、その理由は、男の人ばっかりだったので兵隊さんに行って帰ってこなかった人がいっぱいいたというのが1つ。映画、ラジオドラマ、出始めたテレビにお客さんを取られたというのがもう1つの理由。寄席には誰も来てくれなかった。落語も閑古鳥が鳴いていたそうでございます。

 ところが、テレビの世界の中で、講談は形を変えて生き残っていました。当初のテレビドラマの時代劇には本当は講談、というのがいくつかあります。

 その最たるものが水戸黄門。本当の徳川家光公はそもそも水戸におりません。御三家ですから将軍家のために常時江戸に詰めていなきゃいけません。助さん角さんのモデルになった御家来たちが、大日本史編纂の資料を探すために日本国中を巡った。それを元にして、江戸時代から幕末明治にかけての講談師が、水戸黄門が密かに探索をするという話を作ったら、寄席で大受けしたんです。で、四国や九州へ行くとか、水戸黄門漫遊記という話がどんどん増えていきました。これが水戸黄門のテレビドラマの元です。ちなみにテレビで水戸黄門が出す印籠は、講談の中では出しません。

 大岡越前も、講談では、全く別の人がやったお裁きを、全部大岡様がやったことにして長い長い大岡裁きの講談にした。これがテレビドラマになっていたりします。

 遠山の金さんは、講談の中では桜吹雪でみえを切ったりしません。入れ墨奉行といわれるように、若い頃遊んでいたので肩に彫り物があったのは事実のようですが。誰々ちゃん大好き、みたいな女の人の名前が書いてあったらしい。桜吹雪ではないんです。

 講談には「柳生十兵衛旅日記」という長い長いお話があります。右目が見えなかったのは事実で、それは講談にも出てきますが、眼帯はテレビ、映画になってからです。伊達政宗も講談に出てきます。片目が見えなかった、となってますが、眼帯は映画の影響ですね。

 さて、暴れん坊将軍吉宗。この方は生まれついての将軍ではなく、お世継ぎが生まれなかったため、紀州和歌山から将軍に抜擢されてきた。和歌山では、財政の立て直しをした方です。質素倹約を旨とし、将軍になって江戸城に入られてからも、公式行事には絹の着物ですが普段は木綿の服。ご飯も1日2回、一汁一菜、無駄なものは食べない。足袋も履かずに裸足。お酒はたくさん飲んだようですが。

 有名なのは、江戸に来た最初、大奥にはたくさんの美女がおりました。将軍家お世継ぎを残さなきゃいけません。でも、それだけの美女がいるのにお世継ぎができません。で、吉宗公が最初にやったのが、大奥の中の美しい女中100人の名簿を作ってまいれ、という…。「これはリストラだな」と、みなさん必死です。一生懸命、お肌の手入れをして、きれいにして。役人に賄賂をあげてでも100人の名簿に入れてもらった人もいます。その100人が集められ、「ここにいる100人は大奥から出ていってください」と、美人の方をリストラしちゃった。なぜかというと、それだけ美人で着飾る財力があれば、結婚するなりなんなり、大丈夫でしょ、頑張ってね、って。残ったのは、それなりの人とそうでもない人と…。そうして大奥を地味に運営した、という人でございます。

 吉宗は、鷹将軍とも呼ばれ、鷹狩りを復活させた将軍です。徳川家康公は鷹狩りが大好きで、秀忠公も3代家光公も大好き、4代目はまだ小さく鷹狩りをする前に亡くなってしまいました。5代将軍綱吉公は、生類憐みの令の人です。獣が死ぬのはかわいそう、ということで鷹狩りはやらなかった。6、7代は早くに将軍の代替わりをしたこともあり、鷹狩りはあまりやりませんでした。8代将軍徳川吉宗公になって鷹狩りが復活しました。寒い時期、鷹狩りが終わりますと、ご神社に休息所が設けられて、そこでお昼ごはんを召し上がります。吉宗公の鷹狩りの時には宮司さんが困ったそうです。それまでのお殿様は金ぴかの格好をしているのに、全員泥だらけの格好で神社に来られて、誰が将軍なのかわからない。周りの人の態度を見て、「1番偉いこの方が将軍様なんだろう」って、かろうじてわかる感じだったそうです。

 さて吉宗公、ご休息所につきますと泥だらけの着物は御家来と違ってお着替えになります。「ただいま、昼餉の用意をさせておりますので今しばらくお待ちください」と、お茶が出る。それをぐぐっと飲み干します。まだ夜も暗いうちから江戸城を馬で出てまいりまして駆け巡り、何も食べていないわけですから、「誰かお茶を勧めてくれるものはいないか、お茶よりは本当は冷たい水が飲みたいのであるが」と思っておりましたが、偉い人というのは、なかなかおかわりなどと言い出せるものではございません。なので、すっと立ち上がると、「上様どちらに?」、「かわやである」、「では手前どもがついてまいります」、「場所はわかっているからいちいちついてくるでない」。そう言われましても、御家来たちは遠目に警護をしているわけでございます。

 かわやから出ると、なにやらいい匂いがしてくる。部屋に戻らず、裏庭をのぞくと、ペッタンペッタンと若いお百姓がお餅をついて丸めている。水場ではおばあさんがザブザブとおいしそうな菜っ葉を洗っては切っている。大きな鍋にはフツフツと湯がたぎり、だしが効いていていい匂い。そこで喉が渇いていることを思い出し、「ばあさん、すまぬが水を一杯もらえるかな」。おばあさんが目をあげて見ると、粗末な木綿の着物で、日に焼けたバサバサ髪の中年のお侍が立っております。まさか、その方が上様だとは思わない。「あ、上様についてきたお侍の1人だな。こんなふうに気さくにニコニコ笑っているから割と身分の低いお役人だな」と思い、「ええだよ、ちょっと待ちなせえ」と、お水をお椀に汲んで差し出した。これをぐぐぐぐっと飲み干して、将軍、「うまい、もう一杯おかわりを」。「お侍様、おかわりは差し上げますが、冷たい水だでね。2杯目はゆっくり飲んだ方がお腹を壊さないでええだよ」。「おお、ありがとう。仕事の手を止めさせてすまなかった。何を作っておるのだ?」、「餅吸いを作っとるだ。汁の中に、餅の丸めたのと青菜を入れて食べるんだ。食器は椀1つと箸だけだし、忙しいお侍様も庭で立ったまま食えるからな」、「うまそうだな、食わしてもらうのが楽しみじゃ」。「ときにばあさん、なかなかおいしそうな菜を切っておるな。それはなんという菜じゃ?」、「これかね、これは葛西菜という」。

 戦後すぐぐらいまで、葛西といえば江戸東京の人が思い浮かべるのが、葛西船。汲み取りのお船です。西の方には野菜を作る百姓がいっぱいいたので、葛西船で汲み取りをして持って帰って肥料にする。江戸というのはリサイクルが徹底していた町でした。清澄白河にある深川資料館に長屋の様子が再現してあり、ゴミ箱もあります。何が入っているのかを見るとシジミの貝殻ぐらい。江戸湾を埋め立てていましたから、その貝殻も埋め立ての材料に使います。それ以外は全部リサイクル。鼻紙も1回すき直して浅草紙っていうのにします。お野菜のクズとかも全部植木の根っこのところにあげたりするわけです。

 江戸時代の長屋の奥さんたちは、あまりお料理しません。表店の八百屋さんが、売れ残った大根とかを漬物にして売っているんです。大きな商家なら、たくあんも自分のところで漬けたのでしょうが。朝から豆腐屋が来るし、納豆も売りに来る。だから、家にあるのはお米と味噌ぐらいです。裁縫とか、手に職を持っている女の人が多かった。何もできなかったら洗濯屋さんです。独り身の男の人が多かったので、ふんどし屋さん。契約をすると定期的に回ってきて、洗い立てのふんどしと替えてくれる。洗濯をしなくてもいいわけです。というように、女の人にはいくらでも仕事があって、体が丈夫だったら大丈夫。なので、長屋のおかみさんは寝坊していたそうです。朝になったら旦那さんの方が先に起きます。母ちゃんのほうが稼いでくれる、出ていかれたら困るので、こっそり起きて火をおこしご飯を炊くのは旦那さんの役目。炊き上がったところで恐る恐る、「お前、ご飯が炊けた」って言うと、奥さんが、「あら、もう朝なの。私、夜鍋で着物の仕立てをしていたから眠いのよ」なんて言いながらおみおつけに入れる大根を切って、お魚かなんか焼いて、朝ごはんを食べる。火を使うのは大体それだけですね。お昼はちょっとだけ食べて、夜もお茶漬けでおしまい、みたいな感じです。女の人が威張ってましたし、それぐらいでも人は生きていたわけです。

 さて、ザクザク切っているのは葛西菜だった。将軍家も葛西船のことは知っていますので、「おっと…」となったわけです。「葛西といったら葛西船のことを思い浮かべるからお役人様はそう言うだろうが、この菜はシャキシャキとしてうめえんだぞ。それに今日の葛西菜は格別じゃ」、「ほう、ばあさん、それはどうしてかな?」、「野菜っちゅうのは肥料によって出来の良し悪しが決まる」、「うんうん、肥料というのは大切じゃな」。吉宗公は民百姓が豊かになってくれるようにと、いろいろと勉強している人なので、肥料の勉強もしていた。しばらくはおばあさんと肥溜め談議です。「今日のが特別なのは、なんと肥やしを大奥から運んできたのじゃ」。「うちからか…」とは言えない将軍様。「大奥の人たちはええもん食っとるから、ええ葛西菜になる。お役人様のところにも届けてやろうか」、「いや、葛西船で届けるのであろう。それは…」、「何を言うとる、届ける時には空船じゃ。おまけに出る時に海の水ゴシゴシで磨き立てていくからきれいなんじゃ。それの屋根の上に乗っけていくから大丈夫じゃ」。「いや、それにしても江戸城の近くでは見ない菜じゃな」、「そりゃそうじゃ。すぐ売り切れてしまうからな。それにこの菜を高く積むと下の方が傷んで茶色くなってしまうのでの、遠くまでは運べぬのじゃ」。「そうか。ばあさん、楽しみにしておるぞ」。

 部屋で待っておりますと、やがて黒塗りの椀にふくいくたるお吸い物がやってまいります。お供のものがまずは一口食べて、「この菜は見かけぬ菜でございますがたいそうおいしゅうございます。上様もお召し上がりを」。椀が自分の前にやってくる。お餅の上に乗っている菜っ葉は、つゆを吸っておいしそう。それをつくづくと眺めて、「確かにこの菜は初めてである。だが、どうにも初めてのようには思えぬ。元気に育ってよかったのう」。

 宮司さんを呼びまして、「この菜はなんという菜であるか。たいそうおいしかったが」。宮司さん、困りました。上様も葛西船のことをご存じかもしれない。葛西菜と言ってはご不快に思われるかもしれないと、「この菜は小松川あたりにあります名もなき菜でございます」と言いました。小松川あたりに生える名もなき菜では早口言葉のようで困ります。上様も、「まあ、葛西菜とは言えなかったのであろう」と思い、「そうじゃ、この地は小松川。小松というのは松平の松にも通じる。また小松は大変にめでたいものである。よってこの菜をこれよりは小松菜と呼ぶがよい」、「ははっ、ありがたき幸せ」。と、この菜っ葉を小松菜と呼ぶようになりました。

 現在の小松菜は、チンゲン菜を掛け合わせたものでございます。運びやすいようにとか、密集して栽培することができるようにとか、そういうことを考えて品種改良したもので、それも正真正銘の小松菜でございます。元はもうちょっと白菜みたいにバサバサッとして、葉っぱの広い、軸が短い菜っ葉だったようでございます。

 そんな感じが小松菜の由来でございました。ありがとうございます。
◇終わりに
  • 最後に、ここ秋葉原の野菜にまつわる観光案内です。元は青果市場かつ船溜まりがあったところで、昭和の40年代ぐらいまで水路が切ってありました。列車で運ばれてくるお米などを船で運び出すような仕掛けがあったんです。

  • 総武線の後ろの方に乗っておりますと、下に公園が見えます。そこも船溜りだったのを埋め立てて、公園になっています。その向こうに川が流れていて、さらに向こうには柳森神社があります。元江戸城にあった神社を移築したもので、お稲荷さんがある。お稲荷さんは普通は狐ですが、ここに限ってはたぬきです。で、綱吉公のお母さんの桂昌院が拝んでいた神社だったそうです。

  • 「桂昌院」というタイトルの長い講談があります。桂昌院という人は、京都の出で、八百屋の娘だったといわれています。春日局が3代将軍家光公の側室を探しに京都へ来て、お姫様を1人連れ帰った。そのお付きの女中さんだった。上様のお手がついて生まれたのが5代将軍綱吉公です。ただし、綱吉は将軍になる予定は全くなくて、お旗本として館林宰相という形で館林に領地があり、江戸詰めで将軍のお手伝いをすることになっていましたが、4代将軍に跡継ぎがなかったため大抜擢で5代将軍になった。思いもかけぬ出世をしたのが桂昌院です。桂昌院という名前になる前は、お玉さんという名前でした。諸説ありますが、「玉の輿に乗る」の玉は、このお玉さんから来ているともいわれています。桂昌院の親戚本庄家はお旗本に取り立てられ、元は大根売りだったことから紋所は大根です。

  • 柳森神社はたぬき神社、桂昌院だけでなく江戸城のお女中さんたちもたぬきを信仰し、置物などを持っていたそうです。なぜたぬきだったか、「他を抜く」からです。大奥も競争の世界ですから。かわいらしいたぬきのオブジェを持ちながら、ライバル心いっぱいという…。そんな柳森神社でございます。川向こうの小さな神社ですが、野菜にゆかりといえば無理やりゆかりの土地、ぜひ訪れてみてくださいませ。

  • 講談師から事務連絡でございます。講談師は真打ちになると弟子が取れます。今、弟子を絶賛大募集中でございます。みなさまはもちろん、ご親戚とかご友人で講談師になりたいという人がいましたら、好きな真打ちのところに行って、「弟子にしてください」と頼んでみてください。お願いしたいのは、ご親戚あるいは娘さん息子さんが講談師になりたいって言ったら、どうか、「そんな馬鹿なことはやめなさい、食えないらしいよ」ってすぐに止めないで。今、人生長くて100年時代ですから、「いっぺん寄り道をして試しにやってみたら」と、快く背中を押して差し上げていただきたいと思います。

  • 講談会のチラシの方にもお越しいただけるとありがたく存じます。講談師は、呼ぶこともできます。お客さまは最少2名さまからOK。支援者の方がお声がけをしてくださって東京拘置所に呼ばれて一席やってきた講談師もいますし、「寝たきりのおじいちゃんの家に来て、枕元で講談やってもらえませんか」みたいなご依頼にも応じておりますので、お気軽にお声をおかけください。

  • いろいろな催しものにも行きます。誰にしていいのかわからなかったら、たくさん講談師が出ているところを見てもらって、「こいつに頼もうかな」って決めて、楽屋に行って、「ちょっと来てくれないか」と。ギャラが多少安くても、「今日聞いた中で君が1番良かったから」なんて言われたら、大概断れないじゃないですか。講談師も、条件が合わないと思ったら、「すいません、その日はもう仕事が入ってるんです」、「翌週ですか、すいません、翌週のその日も仕事が入ってるんです」って、多分、平和に断ると思いますので大丈夫でございます(笑)。以上で事務連絡は終了です。本日はありがとうございました。
 
 

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